哲学は他者との対話のうちに存在する?【バフチンから考える】

ドストエフスキー

バフチンは『ドストエフスキーの詩学』で、ドストエフスキー作品の登場人物はみな一人のイデオローグであると言っています。

すべての人物が思想家であり、それぞれ異なった思想を抱えているということですね。

さらに重要なのは、それらの思想が対話のうちに存在するという点。

対話から切り離されたモノローグ的な思想はドストエフスキー作品には存在しないのだと。すべての思想家は他の思想家との対決のなかに存在します。

『地下室の手記』の主人公のように部屋にひとり閉じこもっている場合でさえ、その言葉には他者との対峙という特性が鳴り響いている。

バフチンは、対話から切り離したらドストエフスキー作品の異常な思想性は消えると指摘します。ただの貧弱なモノローグ哲学と化してしまうと。

これすごく説得力のあるドストエフスキー論だと思います。

しかしふと思ったのですが、ひょっとすると哲学も本来は対話のうちに存在するんじゃないだろうか。

バフチンは哲学=貧弱なモノローグと捉えているフシがありますが、本当は哲学も対話性をその本質にしているんじゃないかしら。

ただそれを作品に表現できないだけで(そんなことができるのはドストエフスキーぐらいなのですから)、哲学者の本来の住み家はモノローグではなく対話のうちなのではないか。

 

わかりやすいのは西洋哲学の始原ソクラテスですね。

彼は作品を遺しませんでした。「書かれたもの」を徹底的に軽んじていた。書かれたものには哲学が宿らないと考えていたためです。

その代わりにソクラテスが重視したのが、他者との問答です。

他者との対話を重視し、書くことを軽んじた。つまりソクラテスは、書かれたものから抜け落ちてしまう哲学の本質を対話性だと考えていた、これは間違いないでしょう。

 

無理に自分の対話的思想を作品に結晶化すると、そこから対話性が抜け落ちて、貧弱なモノローグになってしまうのだと思います。

他の哲学者の場合でも、その思想の発生現場には強力な対話性が渦巻いているケースが多いんじゃないか。しかしそれを著作にしようとすると、なにか別のモノローグ体系と化してしまう。いわば哲学者というのは、自分の作品に裏切られているわけですね。

 

ソクラテスがドストエフスキーを読んだら驚くと思います。書かれたものの中でも哲学は存在しうるんだなと言って。

哲学者でそれに近いことができるのは、後期ウィトゲンシュタインでしょうか?あるいはニーチェにも少しそれっぽいものがあるかも。

 

哲学は本来モノローグではなく、異質な思想家のあいだの対話のうちに存在する、のかもしれません。

だから哲学史の本は読んでいて面白いのかも。純粋な哲学書みたいなのよりも、哲学史の羅列のほうが、実はずっと哲学していたりするのかもしれない。