ドストエフスキー作品の登場人物はなぜリアルなのか【考察】

2020年4月14日ドストエフスキー

ドストエフスキー作品の大きな特徴のひとつに、登場人物の異様なリアリティがあると思います。

埴谷雄高をはじめとして、多くの読者がそれを証言しますよね。

なぜこのような特徴が生じるのか?

ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読んでいたら、そのヒントに遭遇しました。

バフチンいわく、ドストエフスキー作品に登場するキャラクターは、外的な説明で切り取ることができません。

よくあるテンプレートに当てはめて、「この人物はこういう性格をもってこういうことを信じている」とか、「この人物のあの行動はこういう役割を果たしている」とか、きれいにまとめて済ましてしまうことができないのですね。

 

わかりやすいのは『貧しき人びと』や『地下室の手記』の主人公です。彼らは他人が自分に向ける視線を先取りし。それをいちいち否定して回ります。

そういう外的かつ適当な評価で汲みつくせる存在じゃないんだぞと、反抗するのですね。

 

あるいは『カラマーゾフの兄弟』におけるミーチャの裁判シーンも象徴的です。

頭のいい弁護士とかがたくさん登場して、ミーチャの境遇や心理について語りますよね。「ドミートリーはこういう人物なんだ」という外的な評価が山ほど与えられるシーンです。

あれは彼らの小賢しい評価が空回りしていることを示す場面なのです。もっともらしく見えるどの論評も、ミーチャという人格には届かない。

だからアリョーシャは終盤、弁護士を軽んじるような発言を子どもたち相手にするのですね。

 

ドストエフスキーの主人公たちがその深遠な人格を垣間見せるのは、内的な対話の瞬間においてのみです。

例としてバフチンは、スタヴローギンとチーホン、ラスコーリニコフとポルフィーリーの対話を挙げています。

 

さらに重要なのは、登場人物たちが作者(ドストエフスキー本人)をも退けるところ。

ドストエフスキー作品においては、作者の神の視点のなかでキャラクターが動き回るということがありません。

そうではなく、作者が物語の中に入り込み、登場人物たちのあいだに並列されるのですね。

これはドストエフスキーの創造したポリフォニー小説という革命的形式に関わるのですが、とにかく普通じゃないことは確かです。

 

そしてドストエフスキー作品の登場人物たちがその作者からも自立する以上、その読者からも自立すると考えるのが当然でしょう。

作者の立場を理解してその視点から見下ろせば、キャラクターの中身を洞察できる。普通はこうなるんですよね。

しかしドストエフスキー作品の場合、そのような作者の視点は存在しません。作者が登場人物たちのあいだに並列されているのですから。

キャラクターを見通す外的な視点が存在しない。したがってそこにはつねに謎が残ります。

こちらの解釈に閉じ込めることのできない他者性。おそらくこれが、ドストエフスキー作品に登場する人物たちの放つリアリティの源泉だと思います。

作り物というより、こちらに対話を迫ってくる生身の他者に近いのですね。

 

そう考えてみると、ドストエフスキーの登場人物の濃さを「キャラ立ち」という言葉で表現するのは適切ではないのかもしれません。

キャラ立ちとはまさにテンプレートの集合であり、こちらの解釈から逸脱することのない安心そのものなのですから。