時間的なゲーテと空間的なドストエフスキー

ドストエフスキー

ロシアの批評家ミハイル・バフチンの名著『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)を読み返していたら、興味深い記述に遭遇。

ゲーテに時間的な性質があるのに対し、ドストエフスキーは空間的だというのです。

ゲーテはあらゆる出来事を一本の時間軸上にならべ、その生成と展開を描こうとするのですね。

バフチンは次のように言います。

ゲーテのような芸術家は生理的に成長というパラダイムへの志向をもっている。彼は同時存在する諸矛盾を何らかの単一の発展運動の諸段階として捉え、個々の現象のうちに過去の痕跡、 現在の頂点もしくは未来の傾向性を発見しようとする。

 

ところでこれ、ヘーゲルの弁証法の説明として読んでもなんら違和感がないですよね。

ヘーゲルの弁証法においてはただ精神(スピノザの神のようなもの)だけが存在し、あらゆる事象は精神の成長プロセスの一環として地位を得ます。

僕はゲーテにくわしくないのですが、ヘーゲルの哲学ってゲーテから着想を得た面もあったりするんでしょうか?

そういえばレーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ』では、ゲーテとヘーゲルの比較がテーマのひとつでした。何が書いてあったっけ?あれもそろそろ読み返してみたい気持ち。

 

いずれにせよ、以上のようにゲーテにはいわば時間的な性質があるというんですね。

それに対してドストエフスキーは空間的な作家です。

バフチンは言っています。

ドストエフスキーはゲーテとはまったく反対に、様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えた上で、劇的に対置し対決させようとする。

 

過去と未来が存在せず、現在という一瞬(いわば永遠)にあらゆる要素が並置されるんですね。

これはいわば時間の不在であり、空間的な性質として捉えることができます。

 

狭い場所に登場人物がぐわーっと押し寄せるドストエフスキー特有の演出も、バフチンはここから説明しています。

また、キャラクターの分身(たとえばイワンと悪魔)が登場する理由についても。

ゲーテであれば、分身などは登場せず、あるキャラクターの過去もしくは未来の一段回として、現在の彼または彼女とは別の人間性が描かれるでしょう。

しかし時間性の存在しないドストエフスキー作品においては、その複数の人間性が現在という平面に並列されます。それを可能にする仕掛けが分身なのですね。

バフチンと木村敏

ドストエフスキーはてんかん患者として有名です。

ドストエフスキーの空間性、いいかえると過去と未来の欠如、これがどこまでてんかん気質に由来するのか興味深いところ。

 

たとえば精神病理学者の木村敏は、てんかん患者に特有の時間性として、「祝祭的な今」を挙げました。

未来を先取りする分裂病質や、過去にこだわるうつ病質とは異なり、てんかん気質には現在への没入が見られると。

 

これバフチンの指摘するドストエフスキーの空間性偏重と呼応するものがありますよね。

「現在に重点」とか「祝祭性(カーニバル)」とか聞くと、バフチンのドストエフスキー評が思い浮かびます。

ひょっとすると木村敏は、バフチンの著作からアイデアを得たのかもしれない。

木村の『時間と自己』も読み返したくなってきました。