『チェーホフ』退屈のロシア文学者【書評】

2021年7月21日

19世紀ロシアを代表する文学者のひとりチェーホフ。

そのチェーホフを扱った岩波新書が浦雅春の『チェーホフ』です。

評伝のようなスタイルではありますが、伝記的エピソードは控えめ。

むしろチェーホフの根本思想(というか思想の欠如、というか思想の欠如の自覚)に着目し、膨大な数の作品からそれを読み取っていきます

退屈の文学

19世紀ロシア文学はトルストイやドストエフスキー、ツルゲーネフなど役者揃いですが、チェーホフは彼らとはだいぶトーンが異なります。

やや遅れて登場したチェーホフは、文学的にも政治的にも、熱狂のあとの空白地帯に身を置かざるをえませんでした。

それが、他の追随を許さないレベルの退屈の文学として結実します。

語るべき理念もなく、熱情もなく、ひたすら虚無感と退屈が支配する。それがチェーホフの魅力になります。

 

ショーペンハウアーは人間の一生を苦悩と退屈のあいだを揺れ動く振り子に例えましたが、人間の苦悩を描く天才がドストエフスキーなら、退屈を描く天才はチェーホフだと言えるでしょう。

ベケットの『ゴドーを待ちながら』やブッツァーティの『タタール人の砂漠』など、退屈をテーマにした良作は他にもありますが、やっぱりチェーホフが一番だと思います。

 

興味深いことに本書には、ベケットを先取りするような作品構想をチェーホフが秘めていたことも書かれています。

戯曲はさしずめ四幕。三幕までずっと主人公は待たれていて、彼の噂がさかんにのぼる。彼はやってくるのか、それとも来ないのか。四幕で彼を迎えるすべての準備が整ったところで、当の人物が亡くなったという電報が届く(浦雅春『チェーホフ』)

これはもろにベケットの『ゴドーを待ちながら』を思わせますね。

 

作者のチェーホフその人も虚無と退屈に苦しめられていたらしい。

次のチェーホフの言葉に共感する人は多いでしょう。

情熱が足りない。それにここ二年ばかり活字になった自分の作品を見る気もせず、書評や文学談義、噂話や成功や失敗、法外な原稿料にも一切関心を失ってしまいました。ひとことで言えば、大馬鹿者になりはててしまったのです。魂のなかでなにやら停滞が起きてしまったのです。ぼくはこれを自分の生活がにっちもさっちも行かなくなったためだと考えています。別段、ぼくは幻滅したわけでも、疲弊したわけでも、ふさぎ込んでいるわけでもありません。ただ急に一切がおもしろくなくなったのです。自分の下に火薬でも仕掛けなければいけません。(同書)

 

僕はいま30代前半なのですが、20代後半あたりから急に退屈を覚えるようになりました。

それまで退屈というものを感じたことがなかったのですが、急にものごとへの関心が薄れ始めた。それ以来、退屈との死闘を演じています。

幸か不幸か、そのせいでチェーホフの作品が染みること染みること。

ドストエフスキーとはまた違った種類の感動があります。

ドストエフスキーは崇高な栄光と崇高な苦悩。高みへと導いてくれる感じですね。

それに対して、チェーホフは虚無と退屈。自分自身の姿を映し出してくれる感じ。ジーンときます。

 

僕だけでなく、社会的にもチェーホフ的な問題に直面するケースは増えていくと思われます。昭和や平成の前半が高い苦悩と栄光なら、平成の後半や令和は虚無と退屈ですね。

虚無と退屈に支配された人は、チェーホフを読むべき。

まずは新潮文庫の『かもめ・ワーニャ伯父さん』をおすすめしておきます。

本書『チェーホフ』はネタバレだらけなので、チェーホフを読破した後に読んだほうがいいでしょう。

文学の本

Posted by chaco