『21世紀ドストエフスキーがやってくる』ファン必携の良書【書評】

2020年3月1日ドストエフスキー

『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社)を読みました。ドストエフスキーに関する、色々な人の評論や対談が詰め込まれた企画本。

 

とくに印象的だったのは大江健三郎と沼野充義の対談「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」と、加賀乙彦と亀山郁夫の対談「二つのドストエフスキーの間に」です。

というか、大江健三郎と加賀乙彦がすごい。やっぱり自分で小説を書いている人は深みが違うなという感じがする。

 

大江健三郎の明るいドストエフスキー

大江健三郎と沼野充義の対談「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」で印象的だった点は以下のあたり。

 

・英語圏のドストエフスキーは長いことガーネット訳が主流だった。ガーネットはなんでもかんでもヴィクトリア調の文体で訳すため、ドストエフスキーもトルストイも文章が同じという事態になっていた。

ピーヴィア・ヴォロホンスキー夫妻の英訳はドストエフスキーの文体を訳文にも活かそうとする試みで、高い評価を受け広く読まれている。

・大江いわく、ドストエフスキー作品に登場する悲劇的ないし悪魔的人物はそれほどすごくない。

・ドストエフスキーの天才が真に発揮されるのはむしろ、善人や小悪党を描くとき。

・ドストエフスキーはディケンズに通じるものをもった作家である。

 

大江はイワンの大審問官をそれほど大したことないと言っていますが、これは僕も同感。なぜあのエピソードがそれほど過大視されるのかと思う。

東浩紀のドストエフスキー論を読んだことで、今はその理由を、人々がイワンに寄せる共感にあるのではないかと考えるようになりました。

 

それにしても大江健三郎には独特のすごみがありますね。柄谷行人との対談を読んだときにも感じたことですが、なんというかスケールがめちゃくちゃでかい人という印象。

 

加賀乙彦の小林秀雄批判

加賀乙彦と亀山郁夫の対談「二つのドストエフスキーの間に」で印象に残ったのは以下のあたり。

 

・亀山はフロイトのドストエフスキー論を発展させるかたちでドストエフスキー研究をしている。

・小林秀雄や江川卓など日本の論者は宗教をわかっていない。その結果、ドストエフスキーを論じても核心にとどかない。

・ドストエフスキーは内面を掘り下げる天才であるだけでなく、外部の世界を観察する天才でもある。

 

亀山がフロイトの研究に依拠していたことは初めて知りました。僕が亀山のドストエフスキー論に感じる違和感の正体がつかめた気がします。

ついでに言っておくと、東浩紀が亀山のドストエフスキー論に共鳴する理由も、ここに関わっている予感がします。

 

小林や江川に対する加賀の批判はすごくよくわかる。宗教を抜きにしてドストエフスキーを理解することはできませんからね。

「ドストエフスキーが描く悪魔的人物こそがドストエフスキーの本音なんじゃないか」。宗教への理解が浅いと、とくにこのような錯覚にとらわれがちです。

 

加賀は『死の家の記録』が好きだそうで、それに関連してドストエフスキーの外部世界の観察力のすごさに触れています。先日『死の家の記録』を読み返したとき、僕も同じことを感じました。

ドストエフスキーはおそらく、監獄での体験をインスピレーションの源にしていたのだと思います。作品に登場するキャラクターは、現実に存在した人間をアレンジしたものに違いありません。だからあれほどリアリティがあるのだと思う。

埴谷雄高の『死霊』あたりと比較するとよくわかります。『死霊』はただ哲学談義が繰り広げられるばかりで、キャラクターに存在感がないですよね。

ドストエフスキーの場合、きわめて哲学的な小説を書きながらも、キャラクターには血が通っています。それができたのは、天才的な観察力を駆使して、実在の人物をモデルに登場人物を造形しているからだと思います。