『ゲンロン0 観光客の哲学』人文学を更新し郵便的マルチチュードへ【書評】

2021年3月26日

東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』を読みました。

公的でない私がいかにして公共性を獲得できるか。それがテーマになっています。

そして「観光客」という存在が、公共心などまったくもちあわせていないにも関わらず知らないうちに公共性を発揮してしまう主体として打ち出されるわけです。

 

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公的でない人間たちの公共性

本書の基本的な流れはだいたい以下の通り。

従来の哲学は私が公的な存在となり政治社会に参加することを説いてきた。しかしそれは現代において有効たりえない。
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必要とされるのは公的でない私と公共性を結びつける思想だ。
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それに近づいたのはネグリとハートのマルチチュード。
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しかしマルチチュードは否定的な定義だけからなり、肯定的には何事も語っていない。その弱点を補完する必要がある。
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それが郵便的マルチチュードであり、すなわち観光客の哲学だ。

 

結論として打ち出される郵便的マルチチュードも、やはり曖昧としたイメージから抜けきらない感はありますが、批判的な言説だけでも十分におもしろいです。

 

そもそも公的でない私からなる公共性というテーマがすばらしいですね。

この観点からさまざまな思想が批判されていきます。たとえばヘーゲル、アーレント、シュミット、コジェーヴ、リベラリズム、コミュニタリアニズムなどなど。

また同様の観点から、さまざまな思想が意外なかたちで再評価されます。たとえばルソー、カント、ネグリ、リバタリアニズムなどなど。

とくに伝統的な人文学すなわちヘーゲル的な図式から逃れるものとしてリバタリアニズムを評価するところはインパクトが大きいです。

 

さらに同様の観点から、東浩紀の過去の仕事が明確なイメージのなかでよみがえってきます。『一般意志2.0』とか、もういちどちゃんと読んでみたくなりますね。

参照されているテクストを片っ端から読んでいきたくなるような本です。「こんなふうに読めばよかったのか」と気づかせてくれる感じ。

点と点がつながって線になるような、あるいは、決定的な補助線が引かれることで問題の答えが垣間見えるような。

 

ちなみに本書の第2部は「家族の哲学(序論)」となっており、新たな思想についてラフなスケッチが描かれています。

第1部ほどのインパクトはありませんが、注目すべきは最後のドストエフスキー論ですかね。ドストエフスキーに関心のあるひとには一読をすすめます。

 

やっぱり東浩紀が哲学書を書くと抜群におもしろいですね。

ぼくは柄谷行人が日本の物書きでいちばん好きなのですが、東浩紀がこういう本を書き続けてくれたら、彼が柄谷の後継者の位置におさまりそうです。

哲学の本

Posted by chaco