なぜ日本のサブカルはしょっちゅう神様を倒すのか

2020年6月26日

日本のアニメやゲームなどの創作物って、ラスボスとしてしょっちゅう神様が出てきますよね。それも一神教的な神様が。そして主人公たちが「神を倒す」みたいなことを言い出して、決戦が始まるパターン。

なぜこのようなパターンが繰り返されるのでしょうか?どのような意味があるのでしょう?もしかすると現代の日本人はニーチェ的なのでしょうか?権力に対する反抗心の現れなのでしょうか?

実は、このようなパターンはむしろ、現状を肯定するイデオロギーなのです。どういうことか?

既存の社会構造を確認・強化するために異物としての神を召喚し倒す

日本には一神教的な神様はいませんよね。一神教の国ではないのだから当然です。

また社会システムのレベルで見ても、トップダウンの強大な権力は存在しません。むしろすべてが成り行きのまま自然に決まるような構造が日本の特徴ですから。空気が支配するといってもいいかもしれません。トップはお飾りで、下位集団の空気が意思決定するのが日本の権力構造です。

要するに日本には神も、神のような権力者もいないのです。そんな国の創作物がわざわざ一神教の神様を連れてきて、「オレたちには神は必要ない、神を倒す」と言っている。それが意味するところは何か?

 

これはつまり、既存のイデオロギーの確認そして強化にほかなりません。従来の構造を確固としたものにするために、わざわざ異物としての神を召喚し、それを倒すわけです。

同じく神を標的としているように見えても、たとえばニーチェの批判哲学などとはまったく意味するところが異なります。ニーチェは一神教的な土壌で育った西洋人であり、彼のキリスト教批判は自己批判という面が強いのですから。

 

思想がもつ意味は社会との関係で決まる

思想や哲学のもつ意味は、その内部を見つめただけではわかりません。それが外部ともつ関係を見る必要があります。

「神を倒す」だけだといかにもニーチェっぽい。しかし日本という場所でそれが言われた場合、意味するところはまったく違うのです。

西洋人が神を倒すと言ったとき、それは既存のシステムへの反抗を意味します。一方、日本人が同じことを言っても、それは制度への反抗にはならず、むしろ従来のイデオロギーの強化につながるのです。

「もう空気の支配はやめよう、確固とした超越的な正義を打ち立ててそれに従おう」。こういうことを言う日本人が現れたら、その人は日本においてある意味では真にニーチェ的だといえます。

日本のサブカル作品がしょっちゅう神様を呼んできてそれを倒すのは、いわば社会の価値観の自己確認なのです。これはアメリカ的な価値観を確認し何度も肯定し続けるハリウッド映画に近いといえるかもしれません。

雑記

Posted by chaco