近代文学は言葉の閉鎖システム 吉田健一『英国の近代文学』【書評】

2021年9月30日柄谷行人

吉田健一の『英国の近代文学』(岩波文庫)を読みました。

名著『英国の文学』(同じく岩波文庫)の続編で、こっちは近代の小説家を扱っています。

登場する作家はワイルド、エリオット、イェイツ、ロレンス、ジョイスなどなど。

『英国の文学』に比べるとより哲学的な文章になっていると感じました。おそらく本書が対象とする近代という時代の性質が、文章に反映しているせい。

 

ポストモダン的な近代観

『英国の近代文学』を読んで思ったのは、吉田健一の近代観がとても変わっているなということ。近代というよりは、ポストモダンについての話を聞いている感覚になるのです。

吉田によると近代とは秩序なき混乱と豊穣の時代です。すべてを見通すメタな観点は存在しません。ピラミッド型の秩序が崩れ、各自がめいめい好きにやってるのが近代というわけです。

そして近代文学とはことばに着目した閉じたシステムのことをいいます。

近代文学は、たとえば政治や道徳と直接的なつながりをもちません。時には政治や道徳が表現の対象になることもありますが、それは偶然にすぎない。あくまでも自律的に動くのが近代文学です。

吉田によると、そのような意味での近代文学の開始地点はエドガー・アラン・ポーにあります。ポーはただただ言葉に着目し、言葉を手段のみならず目的であると考えました。これはまさに吉田の定義する意味での近代的な性格です。

そしてイギリスにおいてポーの役割を果たしたのがオスカー・ワイルドでした。

 

柄谷行人との対比

柄谷行人の近代文学観を比べてみると、吉田の特徴がはっきりします。

柄谷いわく、近代文学は確かに個の観点に立脚するけれども、それが普遍的な立場と結びつく限りにおいて近代文学たりうるのです。

感性(個)が想像力(文学)を介して普遍(政治・社会)につながること、それが近代文学の条件です。

だから柄谷的にいえば、そうした条件が失効した現代においては、近代文学はもう終わった存在ということになります(近代文学の終わりについての論考は『思想と地震』に収録されています)。

おそらく柄谷の理解のほうがスタンダードなものだといえるでしょう。

 

吉田健一のいう普遍とのつながりなど関係なく自律的にことばを紡ぎ続ける文学というのは、近代文学というよりもむしろ、ポストモダン文学と呼んだほうがしっくりきます。

そしてその意味での文学ならば、現代においてもまだ生き続けていると思います。